震災20年 今思うこと…

少し前の話題ですが、
今年2015年は神戸の震災より20年と言うことで、
さまざまなイベントや取材がありました。

その中で、震災で大きな被害を受けたにも関わらず、
現在元気に活動をしている神戸の中小企業を、
神戸新聞社が5日にわたり「中小企業の底力」という特集を組まれました。

その最終日、1月18日(日)の朝刊に、
ゑみや洋服店の記事を大きく掲載いただきました。

ブログでははじめて書きますが、
実はボクはこの震災がきっかけで、
今の家業を継ぐ決心を致しました。

思い起こせば20年前のあの当時は大学の4年生。
2ヵ月後に卒業を控え、卒論と試験に向けて躍起になっておりました。

もちろん、そんな時期ですので他社に内定をいただいておりました。
あとは無事に卒業するだけの日々。

洋服屋の息子として生まれたからか、
洋服にはとても興味がありましたが、
実はこの当時、父の経営する洋服店には全く興味を持っておらず、
もちろん、その仕事を継ぐなんてことは一切頭にありませんでした。

そんなこんなで起こった1995年1月17日の阪神淡路大震災…

5階建ての旧社屋は東に傾き、階段は落ち、
震災初期の検査では「全壊」立ち入り禁止という結果でした。
(後の再検査で補修の条件付で「半壊」に修正されました。)

そんな中、長らく辞めていたタバコを吸い出し、
ひどく落ちこんだ親父(弊社会長)が、
震災2日目に「やっぱり商売人は商売でお役に立たないかん!」と奮い立ち、
当時残った社員を引き連れ、先頭に立って「全壊」の社屋に入り、
当時取り扱っていた既製品の中で、
防寒具、スウェット、肌着などで濡れていないものを持ち出し、
アーケードの壊れた商店街の店頭にダンボール箱を出し、
破格で販売を始めたのを今でも覚えています。

そして震災3日目、
「大阪の現金問屋へ、防寒具と寝間着を仕入にいくから運転してくれ!」
と頼まれました。

4日目の早朝、親父を助手席に乗せ、
ステーションワゴンで神戸の街を出発しました。

主要道路は許可証がなければ通行できませんでしたが
幸いにも学校が大阪方面だったため、
いろんな抜け道を知っておりました。
被害の少ない山の手の道を選び大阪へ向かいました。

灘区、東灘区、芦屋市、西宮市…
行けども、行けども、倒壊した木造の建物と、
通行できない道。

行けは戻り、Uターンしながら
通れる道を探し、ようやく武庫川を越えたあたりから、
平穏な町並みに変わって行ったように思います。

普段なら1.5時間もあれば到着するであろう、
神戸、大阪間でしたが4時間かけて到着した大阪。

震災以降4日間、風呂も入れず、ヒゲ面で到着した大阪は、
スーツ姿で歩くビジネスマンが早足で忙しく歩き回るいつもの大阪。

このギャップに嬉しいような、悲しいような
複雑な心境になったのを覚えています。

とりあえずしばらくとマトモなものを食べていなかったので、
昼食を済ませ、現金問屋に向かい、
被災した方々が取り急ぎ必要であろう、
防寒具、寝間着、肌着などを車につめるだけ購入し帰路に着きました。

ところが、案の定神戸方面に向かう道はほとんど封鎖されており、
入れないことを知り、大回りして帰ることにしましたが、
やはり、考えることはみな同じ。

神戸に向かう車で大渋滞、いや停滞でした。

仕方なくかなり北の篠山手前まで抜け、
西に向かい、新神戸トンネルを抜け帰宅しました。

なんと道中かかった時間が9時間ぐらいだったと思います。

その間、今まであまり話すことの無かった親父といろいろ話し、
その会話の中で、今のゑみや洋服店に跡継ぎとして入ることを決断したのでした。

振り返ってみれば、
もし、もし、震災が無かったら、
今自分はどうなってたんだろうと考えると、
なんともいえない心境になります。

被害にあわれた多くの方々を前に
決して、震災に感謝なんてことは言えませんし、
実際思ってもおりません。

ですが、ボクにとって震災は必要、必然であり、
今ココ(ゑみや洋服店)に立っている事実は事実であり、
うまくまとめれませんがそういうことです(笑)

毎年、震災の日が近付くとそんな複雑な心境が頭をよぎります。

でも、このような形でですが神様が与えてくれた、
この天命、天職に感謝し、この仕事を通じて、
喜んでいただける人を増やしていきたいと思います。

今まで、語らずにきましたが、
新聞に取材を頂いたのでちょっと書いてみました。

長々と読んでいただきありがとうございます。
引き続きゑみや洋服店をよろしくお願いいたします。

特集記事

最近の記事
  1. 爽やか~なチェック生地 ダブルブレストオーダースーツ

  2. 脚を長く魅せるパンツの話(音声配信)

  3. 7月の営業ご案内(2024年)

アーカイブ
TOP